【ソフィーの選択(Sophie's Choice)】
ひとの過去には、いろんなことがある。
私も生きていくに従って、だんだんそんな当たり前のことがわかってきた。これからも、まだまだそう思わされることにたくさん出会うのだろう。
目の前にいる彼がいまどのような気持ちでいるのか、彼女がいったいどのような考えから私にこの話をしているのか、それは相手が生きてきたたくさんの経験と時間というバックボーンの上にあって、いま自分の目の前に表されている。
長く知っている友人のことだって、日々のことや過去のこと、全てを事細かに知っているわけでないんだし、初めて会う人ならなおさらだ。
生きていく限り、みんな何かしら抱え、過去に何かを背負って生きている。
『ソフィーの選択』の物語は、大学を卒業したばかりの、作家志望の若者スティンゴが、田舎からわずかなお金だけを持ってNYブルックリンのアパートに入居したところからスタートする。
入居してまもなく、アパートの階段でわめきちらす男性ネイサンと泣きすがる女性ソフィーと出会う。彼らは同じアパートの上階に住んでいるカップルで、その日からスティンゴ、ネイサン、ソフィーの3人は多くの時間を共に過ごし、親友同士となっていく。
そしてスティンゴは彼らとの日々のなかで、次第にネイサン、ソフィーそれぞれの過去や秘密を知ってゆくのである…。
ソフィーは、ポーランド人であり、アウシュビッツ強制収容所に入っていた過去がある。ソフィーが、アウシュビッツのこと話したがらないのは当然。
それにひきかえ、スティンゴはまだまだ世の中を知らない、自分探し中の22歳の若者。純粋なスティンゴは美しいソフィーに惹かれ、ソフィーのことをもっと知りたがる。そして少しずつ、少しずつソフィーの口から、彼女が今までいったいどのような経験を経て、いまここアメリカでネイサンとの暮らしにたどり着いているのかが語られていく。当然ながら、その話はあまりにも、重い。
この、何も知らないがゆえに、人のことにずけずけ踏み込んでいく感じ、
なーんにも知らないのに、相手をよく知っている気になって楽しく過ごしていたこと、
私にも、あった。
少し前の私はいまよりもっと、あまりにも世間知らずだったし、目の前の他人のことは目の前で起きている事象でしか判断できていなかった。その人が持っている過去や経験を推し量るなんてこと全然していなかった。
このまだ世の中を知らない若者の青さ、すごくリアル。
なにより、ソフィーが口を閉ざしていたのはアウシュヴィッツでの話なのだ。
ただでさえ、もうほとんどの人がここまでの特殊な状況を、想像も受け止めも、できない。
ソフィーが生きていくために固く固く記憶を閉ざした過去、しかし完全に記憶から消してしまうことなど決してできない壮絶な過去、これから先どんな風に生きていったとしても抱えて背負っていくしかない、あまりにも重く、つらく、厳しい過去。
戦争が終わり、アウシュヴィッツ収容所がなくなっても、決して消すことのできないその過去を、若者の青さに触れて、ソフィーは薄いヴェールをはいでいくように少しずつ少しずつ語るのである。
ところで、3年前、私はポーランド郊外のアウシュヴィッツ収容所を訪れたことがある。
ワルシャワから、ポーランド第二の都市クラクフまで電車で行き、クラクフから車で1時間半ほど行った広大な荒野の中にそれはあった。
私が訪れたのは寒い2月の平日だったが、いまやそこは、私も含めて世界中からやってくる多くの人でごった返している。駐車場には観光バスがたくさん停まり、ガイドも多くの言語でひっきりなしに行われていた。有名なアウシュヴィッツの入り口にある”Arbeit macht frei(労働は自由をもたらす)”の門も、ガイドに誘導されながらすっとくぐって入ってしまい、「え、こんな感じで入っちゃって私ほんとに大丈夫!?」と動揺したほど。
収容所内に入り、銃殺場である「死の壁」の前に立ち、ガス室にも入った。この映画にも登場する、人を輸送するために乗り入れられた線路、バラックの前の荒野も歩いた。
しかし、ドイツ人でもユダヤ人でもポーランド人でもない、戦後70年経ったあとに訪れた日本人の私は、この場にきていったい何をどう、どこまで感じることができたのか。確かに現場に行ったは行った。すごいものを見た。ただ、そこで自分がどこまで何を感じたのか、正直わからず、受け止めきれず、ただそこを訪れたという強烈な体験だけを持って帰ってきた。
そんな私が『ソフィーの選択』を見て感じたことは、衝撃的なものであった。
それは、多くの命が選ばれて殺されていったアウシュヴィッツにまつわるこの歴史に、私は責任がないとえるのか、ということだったのだ。
私がソフィーの立場だったら…という単純なことではなく、 「私」という一人の人間の奥底に、この「人間を選択する」感覚はないのか、アウシュヴィッツは、「私」が起こしたものだとも思えないだろうか、という感覚だ。
『ソフィーの世界』という映画は、アウシュヴィッツを、政治的な問題、民族の問題、といった大きな人間集団のうねりの問題だけではなく、観客として観ているだけの戦後生まれの日本人である「私」にも、「私」がこの歴史を生み出したのだ、という人間としての責任を突きつけるものである。
もちろんここまで自分に刺さったのは、私がアウシュヴィッツに実際に行ったという体験も大いにあるだろう。行って、良かったといま改めて思う。
関係のない話だが、私は国同士の戦争だとか、民族同士の紛争だとか、政治的になぜこういったことが起こっていくのだろうと考えようと、大学は政治学を専攻した。しかし、まーーーーーーーーそれが性に合わず、すっかり落ちこぼれました。(私が落ちこぼれた理由は決してそれだけだけではないが。)私の過去の大反省。
集団の話は、頭で理解できても肚に落ちてこない。周りの人たちが関心を持っている事象よりも、私はもっと個人のことを見たかった。
社会のことを考えるとき、集団と集団のうねりとして考える政治的なアプローチは、私よりもよっぽど適した人たちがいる、ということも知った。
大学時代に私が学んだのは、私はそっちでは戦わない、ということ。笑
私が社会のことを考えるとき、社会を見るとき、たった一人の個人を掘り下げるというアプローチを、これからもとっていくと思う。
さて、自分のことも含めいろいろと語ってしまったが、最後にもうひとつ。
いろいろ考えずとも、ソフィーを演じたメリル・ストリープのただただ圧巻というしかない演技だけでも見る価値があります! と言っておきたい。
もともと、メリル・ストリープは大好きだけれど、これはもう極地。
ちなみに、私は『プラダを着た悪魔』で英語の勉強をしたりしているので(笑)、プラダのときのメリルの英語をしょっちゅう聞いてるんだけど、『ソフィーの選択』でのメリルの英語を、もし聞けたら、ちょっと注目してよく聞いてみてほしい。
ソフィーは英語を習っているポーランド人という設定なのだが、これ、アメリカ人のメリル・ストリープが、明らかに、英語が母国語じゃない人の英語を話している。
嗚呼、舌をまくわ…メリルストリープよ…。
というわけで、今回は想いが強くえらい長くなってしまったね。
次は、フェデリコ・フェリー二監督「道」です。
有里