今更会

今さら観ていない・読んでいないとは言いづらい映画・本を読む会

【クレイマー・クレイマー(Kramer vs.Kramer)

『クレイマー・クレイマー』。
言わずと知れた名作! と誰しもが口を揃えて言うので、大作映画なのかと勝手に思っていたら、お話の内容としては夫婦の離婚と親権にまつわる家庭内の物語で、いわゆる小品といえる作品だろうと思う。
しかし、いや、だからこそ、主演のダスティン・ホフマンメリル・ストリープ、そして子役の三名の演技の素晴らしさが際立ち、心を深く打つ。
二人の名優はいうまでもないが、子役の子もまるでそこに生きているような自然さだった。あとからDVDについているドキュメンタリーを観たのだけど、子役の子はほぼ素人同然で、ダスティンと本当の父子のような関係を作り上げて撮影されたそうだ。とても真摯な姿勢で作られた映画だと改めて思った。

名作映画を観てこのブログに書き始め、いまのところ私は6作品目。ここまできて私が思うに、名作と呼ばれる映画は、観終わった後も、映画の登場人物が自分の中に生きてしまうと思う。
『クレイマー・クレイマー』は、子どもにも無関心で妻にも無理解な夫に対しノイローゼのようになってしまった妻が7歳の息子を残して家を出て行くところから始まる。そこから父と息子二人の生活がスタートし、その後親権を巡っての離婚調停が終わるまでの期間のお話だ。
映画に描かれる前の、頭も良く、きっと良き母であり、良き母子だったであろう妻が、ノイローゼになるまでの息子と二人で過ごした長い時間は描かれない。そして調停後の三人がどうなったのかは描かれない。

親権を争う裁判だからというのもあると思うが、この映画に描かれる前後のこの一家について思わず一生懸命に想像してしまう。

こんな風に登場人物についてたくさん想像させられるのは楽しい。

そしてそんな想像をさせてしまう映画は名作だと思うし、少なくとも私はそんな作品が好きなのだ。

 

さて、次は、またまた黒澤映画。『蜘蛛巣城』です。

 

有里

【道(La Strada)】

イタリアの巨匠、フェデリコ・フェリー二監督の中で多分、最も有名な映画。

めっちゃ泣けると聞いていたのです。感動モノだと。

しかーし…私はね、
もう怒りが…!!笑
腹が立ちましたよ、わたしゃ。笑

この映画で、泣くと言っていたのは男性だったのですが、多分、この映画で泣くのは男性やと思います。
女性は、怒るのでは? と思います。見解やいかに?
あのー、言いにくいのですが、「不器用な男性」に対して、私も、不器用なんだからしょーがないよなとも、可哀想だなとも、哀れだなとも、なんなら守ってあげたくなるわとも、思うのですよ? 私だって。
なのですが、不器用な男性というのは「自分、不器用ですから…」ということを言い訳にして、非常に非常に酷いことも多くないですか?
不器用だからって、なにしてもいいのかよ! と思います。いや、そこは器用不器用の問題ではなく、人間同士としてちゃんとしないとあかんやろ?(怒)と。私はあえて声を大にして言いたい。
……ふぅ。

さて話変わって。この女優さん素敵です。
顔の表情が、とても良いんです。いい顔の女優さんっていいなぁ、と思います。とっても芸達者な女優さんということはわかるので、きっと成熟した方なのだろうと思うのですが、この役の本当に純粋で何も知らない女性をけなげに演じています。

そして、音楽が哀しくて寂しくてとてもいいです。

お話の筋はとってもわかりやすいので、ぜひ見てください。

 

今回はさらっと書いてみました。

次回は「クレイマー・クレイマー」です。

 

有里

【ソフィーの選択(Sophie's Choice)】

ひとの過去には、いろんなことがある。

私も生きていくに従って、だんだんそんな当たり前のことがわかってきた。これからも、まだまだそう思わされることにたくさん出会うのだろう。

目の前にいる彼がいまどのような気持ちでいるのか、彼女がいったいどのような考えから私にこの話をしているのか、それは相手が生きてきたたくさんの経験と時間というバックボーンの上にあって、いま自分の目の前に表されている。

長く知っている友人のことだって、日々のことや過去のこと、全てを事細かに知っているわけでないんだし、初めて会う人ならなおさらだ。

生きていく限り、みんな何かしら抱え、過去に何かを背負って生きている。

 

ソフィーの選択』の物語は、大学を卒業したばかりの、作家志望の若者スティンゴが、田舎からわずかなお金だけを持ってNYブルックリンのアパートに入居したところからスタートする。

入居してまもなく、アパートの階段でわめきちらす男性ネイサンと泣きすがる女性ソフィーと出会う。彼らは同じアパートの上階に住んでいるカップルで、その日からスティンゴ、ネイサン、ソフィーの3人は多くの時間を共に過ごし、親友同士となっていく。

そしてスティンゴは彼らとの日々のなかで、次第にネイサン、ソフィーそれぞれの過去や秘密を知ってゆくのである…。

ソフィーは、ポーランド人であり、アウシュビッツ強制収容所に入っていた過去がある。ソフィーが、アウシュビッツのこと話したがらないのは当然。

それにひきかえ、スティンゴはまだまだ世の中を知らない、自分探し中の22歳の若者。純粋なスティンゴは美しいソフィーに惹かれ、ソフィーのことをもっと知りたがる。そして少しずつ、少しずつソフィーの口から、彼女が今までいったいどのような経験を経て、いまここアメリカでネイサンとの暮らしにたどり着いているのかが語られていく。当然ながら、その話はあまりにも、重い。

 

この、何も知らないがゆえに、人のことにずけずけ踏み込んでいく感じ、

なーんにも知らないのに、相手をよく知っている気になって楽しく過ごしていたこと、

私にも、あった。

少し前の私はいまよりもっと、あまりにも世間知らずだったし、目の前の他人のことは目の前で起きている事象でしか判断できていなかった。その人が持っている過去や経験を推し量るなんてこと全然していなかった。

このまだ世の中を知らない若者の青さ、すごくリアル。

 

なにより、ソフィーが口を閉ざしていたのはアウシュヴィッツでの話なのだ。

ただでさえ、もうほとんどの人がここまでの特殊な状況を、想像も受け止めも、できない。

ソフィーが生きていくために固く固く記憶を閉ざした過去、しかし完全に記憶から消してしまうことなど決してできない壮絶な過去、これから先どんな風に生きていったとしても抱えて背負っていくしかない、あまりにも重く、つらく、厳しい過去。

戦争が終わり、アウシュヴィッツ収容所がなくなっても、決して消すことのできないその過去を、若者の青さに触れて、ソフィーは薄いヴェールをはいでいくように少しずつ少しずつ語るのである。

 

ところで、3年前、私はポーランド郊外のアウシュヴィッツ収容所を訪れたことがある。

ワルシャワから、ポーランド第二の都市クラクフまで電車で行き、クラクフから車で1時間半ほど行った広大な荒野の中にそれはあった。

私が訪れたのは寒い2月の平日だったが、いまやそこは、私も含めて世界中からやってくる多くの人でごった返している。駐車場には観光バスがたくさん停まり、ガイドも多くの言語でひっきりなしに行われていた。有名なアウシュヴィッツの入り口にある”Arbeit macht frei(労働は自由をもたらす)”の門も、ガイドに誘導されながらすっとくぐって入ってしまい、「え、こんな感じで入っちゃって私ほんとに大丈夫!?」と動揺したほど。

収容所内に入り、銃殺場である「死の壁」の前に立ち、ガス室にも入った。この映画にも登場する、人を輸送するために乗り入れられた線路、バラックの前の荒野も歩いた。

しかし、ドイツ人でもユダヤ人でもポーランド人でもない、戦後70年経ったあとに訪れた日本人の私は、この場にきていったい何をどう、どこまで感じることができたのか。確かに現場に行ったは行った。すごいものを見た。ただ、そこで自分がどこまで何を感じたのか、正直わからず、受け止めきれず、ただそこを訪れたという強烈な体験だけを持って帰ってきた。

 

そんな私が『ソフィーの選択』を見て感じたことは、衝撃的なものであった。

それは、多くの命が選ばれて殺されていったアウシュヴィッツにまつわるこの歴史に、私は責任がないとえるのか、ということだったのだ。

私がソフィーの立場だったら…という単純なことではなく、 「私」という一人の人間の奥底に、この「人間を選択する」感覚はないのか、アウシュヴィッツは、「私」が起こしたものだとも思えないだろうか、という感覚だ。

ソフィーの世界』という映画は、アウシュヴィッツを、政治的な問題、民族の問題、といった大きな人間集団のうねりの問題だけではなく、観客として観ているだけの戦後生まれの日本人である「私」にも、「私」がこの歴史を生み出したのだ、という人間としての責任を突きつけるものである。

もちろんここまで自分に刺さったのは、私がアウシュヴィッツに実際に行ったという体験も大いにあるだろう。行って、良かったといま改めて思う。

 

関係のない話だが、私は国同士の戦争だとか、民族同士の紛争だとか、政治的になぜこういったことが起こっていくのだろうと考えようと、大学は政治学を専攻した。しかし、まーーーーーーーーそれが性に合わず、すっかり落ちこぼれました。(私が落ちこぼれた理由は決してそれだけだけではないが。)私の過去の大反省。

集団の話は、頭で理解できても肚に落ちてこない。周りの人たちが関心を持っている事象よりも、私はもっと個人のことを見たかった。

社会のことを考えるとき、集団と集団のうねりとして考える政治的なアプローチは、私よりもよっぽど適した人たちがいる、ということも知った。

大学時代に私が学んだのは、私はそっちでは戦わない、ということ。笑

私が社会のことを考えるとき、社会を見るとき、たった一人の個人を掘り下げるというアプローチを、これからもとっていくと思う。

 

さて、自分のことも含めいろいろと語ってしまったが、最後にもうひとつ。

いろいろ考えずとも、ソフィーを演じたメリル・ストリープのただただ圧巻というしかない演技だけでも見る価値があります! と言っておきたい。

もともと、メリル・ストリープは大好きだけれど、これはもう極地。

ちなみに、私は『プラダを着た悪魔』で英語の勉強をしたりしているので(笑)、プラダのときのメリルの英語をしょっちゅう聞いてるんだけど、『ソフィーの選択』でのメリルの英語を、もし聞けたら、ちょっと注目してよく聞いてみてほしい。

ソフィーは英語を習っているポーランド人という設定なのだが、これ、アメリカ人のメリル・ストリープが、明らかに、英語が母国語じゃない人の英語を話している。

嗚呼、舌をまくわ…メリルストリープよ…。

 

というわけで、今回は想いが強くえらい長くなってしまったね。

次は、フェデリコ・フェリー二監督「道」です。

 

有里

【セッション(Whiplash)】

2014年製作だから全然最近ですが、表現者としては観るべき映画だと思ったので書きます。
ミュージシャンを描いた映画なんだけど、映画のジャンルとしてはサスペンスに近いと思う。心理描写がえげつない。

 

ジャズドラマーの若者。音楽家の家系ではないが、アメリカ最高峰の音楽学院でジャズを学んでいる。
音楽学院の教授。優秀な学生たちをビッグバンドとしてまとめ、厳しい指導によって率いている。

若者が教授に出会い、見出されるところから物語は始まる。
この教授が曲者で、曲者通り越して完全にサイコパス。今風の言い方をして「パワハラ教師」なんだけどそんなもんじゃない。「アメとムチを使い分ける」という言い回しも生易しい。
学生たちに暴言や無理難題、ときには人種差別的な言葉まで吐き、恐怖でバンドを支配していく。もちろん主人公の若者へも苛烈な指導が待っている。
しかし若者は、教授の厳しい指導に比例してドラムにのめり込む。恋人や家族も顧みず、一心不乱にスネアを叩き続けて。両手は血にまみれて。やがてある日……。
ここまででもう教授が怖すぎてトラウマになりそうだった。

 

芸術として最高をやるために、ここまで人間性を捨てなければいけないのか?と最初は思う。
これは映画でフィクションだからふたりとも極端なだけなんだけど、本質としては終盤で教授が語る「人を駄目にする2つの単語」に収斂している。
もうわたし個人としてしばらく表現活動をやってないんだけど、目の前に突きつけられた言葉だった。これはぜひ実際に映画で観てもらいたい。

 

と、ここまで胸糞で痛い辛い展開ながら、ラストシーンですべて噛み合った。
身体を痛めつけてまでビートを刻むことに没入するドラマーと、狂気に近いそのビートを手中に得ようとする指揮者。
その鬼気迫るセッションがビッグバンドを巻き込んで、音楽の至上の悦びにたどりつくまでの奇跡の10分間、ずっと前のめりで観てしまった。

 

 

以下余談です。(恒例コーナーにしたい)

・原題の”Whiplash”とは。作中で演奏される楽曲名を指しつつ、英語の意味としては「むち打ち症」。ドラマーの職業病。X JAPANYOSHIKIがなってたやつ。
デミアン・チャゼル監督は『セッション』のあと『ラ・ラ・ランド』を撮る。いま観たら印象変わるだろうなあ……。

【用心棒】

名作映画を見る、と言っておいて、黒澤明を外すわけにはいかないでしょう。
黒澤明を観る、となると、私はどうしても気構えてしまいます。
私はっていうか…割とみんなそうなんじゃ……(小声)……え、ちがう…?
だってもはや彼は「伝説」として”すごい人””すごい作品”という認識だけはもう絶対あるじゃないですか。

好き嫌いの好みが分かれる〜とか、一部の映画ファンだけが強烈に好きな〜、とかじゃないじゃないですか。
それを私観て、面白くないって感じてしまったらどうしよ、映画のすごさとかわかんなかったら私って一体…みたいな気構えがありまして。。
いやはや。

 

で、今回「用心棒」を観た感想、一言。

…面白かった!

そう、面白かったんです。

で、この「面白い」というのは、映画としての出来の良さがどうこうで面白いとか、そんな小難しい意味での「面白い」ではなく、
つまりは”enjoy”とか”funny”とかっていう普通の意味での「面白かった」がまずもっての感想なんです。

お話として痛快だし、声に出して笑っちゃったところも割とあって、娯楽として実に楽しかったのです。
なので、黒澤明ってこんなに「面白い」んだ、って逆に感じてしまった。驚き。

「モノクロだ」とか、「世界のクロサワだ」とか、そういうことが邪魔してしまっていたんだと思うけど、でも、よく考えたら、大衆に受けてる映画なんだからそりゃそうだよね。

黒澤明の映画についてよく言われる「カメラワークが凄い」「映像美が凄い」「構図が凄い」など、そういうのにも注目しよう、と意気込んでたんだけど、いい意味で、それにとらわれずに普通に楽しんで愉快に観ることができたのは、とても良かったと思う。

とにかくね、色々気にせず楽しく観てほしい。面白かったんだ。

(一応、観なおしてみようと思って二回観たんですけど、構図とかカメラの動き方とか「わっ」と思うところはたくさんあります。映画を作る人がこれを参考にする、教科書みたいになってるの、わかる。そのあたりにももちろん是非注目ください。)

 

それから、どうしてもこれだけは書いておきたいのは、出てきてる人物がすんばらしい、ということ。

出てくる人出てくる人みんな、生きてる。

これは俳優のすばらしさでもあるし、その人じゃないとできないよねっていうキャスティングのすばらしさでもあるし、脚本のすばらしさでもあると思う。

ここで少しだけあらすじをいうと、ひとつの小さな宿場町の中で2派閥が激しく争っている、そこに三船敏郎演じる浪人がやってきて「俺を用心棒にしないか」と双方の派閥に自分を売り込んでゆき、波風立てまくってその争いを激化させていく…っていう話です。舞台はその宿場町の中だけなので、そんなにたくさんの人が出てこないのもあるけど、まあみんないいキャラばかり。

あの町と、そこに生きる人々が、観終わった今もなお、私の中で実際に存在する町や人のようになってしまっています。主人公含め、一人一人、強いだけでも弱いだけでもない。完全な善人でも完全な悪人でもない。「映画の中の人」ではなく、そこには「人間」が生きていました。

 

次回は、「ソフィーの選択」。

重いテーマを扱う作品ですが、アウシュヴィッツにまつわる映画を少し観たかったので。

 

有里

【ノルウェイの森】

わたしにとって村上春樹は「題名はみんな知ってる」「主人公がすぐセックスする」「地の文がまどろっこしい、文体模倣で笑えるレベル」「村上龍じゃないほう」くらいの認識で、いっさいの小説を読んだことがなかった。読む前に評判でお腹いっぱいになるとでも表現すべきか。
いい加減、読まずに評価するのは止めにしよう、と思って、自宅の夫の蔵書を手に取った。ちなみに夫は春樹をそこまで好きでない。なのになんで持ってるの?と聞くと、「学生時代に一応読んだんだけどそこまでハマらなかった」とだけ。まあベストセラーではあるから持ってても不思議ではないよな。

この小説は、三十七歳の「僕」が十九歳のころを思い出すところから始まる。直子というひとりの女性を回想の軸にしながら、直子と出会った頃の話、学生寮のルームメイトの話、先輩とその彼女の話、大学の同級生の話、その同級生の親の話、と、物語は淡々と進んでいく。ように見える。仄かに死の香りを漂わせながら。


ひとつ、印象的な一文があって。高校時代に「僕」の親友が自殺し、その出来事について考えを整理しながら「僕」はひとつの真理にたどり着く。

生は死の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している。

 

生まれたからには、各位に死という結末が用意されている。いつその結末を迎えるかは分からない。その重圧に耐えかねて自ら死ぬ者もあれば、病に冒されて苦しみながら死ぬ者もある。
そうやって、近しい人々の様々な死を経て、それでも自分の居場所を見つけて生きていかねばならない悲哀。十数年経って過去は遠くにあるけれど、「大切なひとを失った」という感情だけ鮮やかに蘇るような、切なさ。
(そしてセックスは生きている人間としかできないと考えれば、わたしとあなたの生きたしるしのために、肌を重ねるのもやむを得ないであろうという価値観が通底している小説なのだと思う)

これは学生時代に読んでいたら、きっと引きずり込まれていたなあ……と思わされる読書体験だった。

 


あとは余談。

・『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルがあって、春樹に影響を受けてたのか……と今更になって気付く。現象から一定の距離を置く主人公と、その淡々とした語り口。著した谷川流と春樹、実は同じ兵庫県西宮市に所縁があるのです。

・『ノルウェイの森』を読んだ直後から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も読み始めて、きっとこっちが本来系の春樹なんだろうけど、最初から最後まで暗喩的で難解で、なぜこのような小説が毎回ベストセラーになるのかしらん……と思いました。

・劇場アニメ『涼宮ハルヒの消失』では、無口な少女・長門有希が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいるワンシーンがある。これもまた、互いに影響を及ぼしあう、裏表の世界についての暗喩。

・春樹のエッセイ集『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』はスコッチ好きには佳き本です。熟成されたウィスキーを飲むと、口では押し黙るかわりに豊かな言葉で頭いっぱいになりません? 春樹はそのような文章を書くのは得意なんだろうなと思いました。

 

 

ゆーさ

【裏窓(Rear Window)】

ヒッチコックの作品は小さい頃に『鳥』を見ただけ、

それも、鳥が飛んできて襲ってきて怖かったという印象だけ、

…ってな話を映画好きの人にしていたら、

「『裏窓』見て面白くないと思ったら、ヒッチコックは合わないのかもしれない。でもこれだけはまあ見てよ」というアドバイスをくれました。

 

案の定、はまりました。

 

舞台が好きな人にとったら、これはもうこの設定だけでぞくぞくするはず。

この映画の舞台は、主人公ジェフのアパートの一室。以上。

カメラは、ジェフの部屋から外にはほぼ出ていきません。

主人公ジェフは、世界を飛び回るカメラマンですが、事故で骨折し、仕事にも行けずここ1ヶ月以上ずっと自分の家のアパートに車椅子で過ごすのみ。1週間後にギプスが取れるのをただただ待ってる男です。

部屋にやってくるのは、恋人リザとお手伝いのナースと友人くらい。

アパートで暇をもてあましているジェフは、双眼鏡やら望遠レンズやらを使って、窓から向かいの部屋の隣人たちを覗き見するのが日課となります。

向かいにはいろんな人が住んでいて、バレリーナの部屋・作曲家の部屋・新婚夫婦の部屋…などを彼らの窓枠越しに見ることができます。あくまでもジェフが覗き見しているだけなので、声は聞こえません。

物語は、中年夫婦の部屋から奥さんがいなくなり、これは殺人事件では?! とジェフが疑い始めるということで進んでいきます…。

 

 

この殺人事件をめぐるストーリーについてはまた観た後に話し合いたいし、

演出の手法的なところでも素人の私が見ても面白いなあと思う部分がたくさんあるんですが、

とにかくこの設定が面白いので、もうそれだけでも十分私は満足でした。

動けない主人公が、向かいのアパートの部屋を覗いてるだけで話が進んでいく。

それがなんだか、いまいろんな映画を観ている自分のように感じてね。

窓枠って映画のスクリーンっぽいし。

その隣人たちも部屋の中で生き生きしているのよ。

おのおのの部屋に生活があって、そのそれぞれの無言劇を見ているような気持ち。

で、恋人リザは当然動けるので、ちょっとその向こう側のアパートに入っていってこっちを見たりするんだけど、なんかそれが面白い感覚になるんだ。

観てるこっちからすると、この人スクリーンの中に出入りしちゃってるよ! みたいな面白さがあって…。ああ、伝わるかしらこれ。

しかも私は『裏窓』という映画を観ていて、その中でジェフは隣のアパートを観ている、で、その中でさらにそこを行き来しているリザを観ていると、私も入れんじゃないのか、この世界に…みたいな気分にもなってくる…。

ものすごく狭い世界の話だからこそ、視点や演出などなどの面白さがすごく光る。

『風とともに去りぬ』のような壮大さはこれぞまさに映画!! という感じだけど、こういう狭い中で凝らされた趣向ってのも私は大好きです。

 

とまあ、私はそんな楽しみ方をしてこの映画を観ていました。

みなさん、観たら感想を教えてほしいです。

あ、あとこのリザを演じているグレース・ケリーがただただ美しくって、とても快活で…惚れました。そういえば、グレース・ケリーの人生を描いた『グレース・オブ・モナコ』にもヒッチコック出てきてたな…といまさらながら思い出した次第。

 

次は、黒澤明の『用心棒』の予定です。

一気に日本へ…。

 

有里

 

 

余談。

このあと、『裏窓』の余韻に浸りたくてすぐに次の名作になかなか進めず、

あとそもそも映画を観るということにはまりだしているので、

名作と呼ぶには新しすぎるのでここには書かないけど、ほかにも映画を見てました。

この間観たのは『世界にひとつのプレイブック(Silver Linings Playbook)』 と『キャロル』。どちらもよかったよ。